第3節 韓城市
私は党家村の門墩調査中は村内の宿泊を希望したのですが、日本の老人には無理だと8km南の韓城市のホテルを予約され、そこから侯暁軍氏の運転する車で毎日村に通いました。
韓城市は元朝建築の宝庫(中国全土の元朝建築物の六分の一が存在する)と聞き、党家村の調査を終え、西安に帰る途中屈海浪氏(韓城市文物保管所長)に案内していただきました。
その時見た門墩を紹介します。
画像1:普照寺文物管理所大門 (画像をクリックして 大きくなりますヨ) 普照寺は元代の寺です。
記念撮影をしたこの門は最近の建造物です。
門に在る獅子型門墩もその時作られたものです。
画像2:普照寺本殿
元代の建造。入口には門枕石が使われています。
画像3:韓城市孔廟 戟門
門は宋代の962年に建てられ、その後明代1461年に宋代の風格
を継承して建替えられました。
ここでも門墩はなく門枕石が使われています。
韓城市孔廟は韓城市文物管理所を兼ねています。
画像4:韓城市孔廟 欞星門
門は宋代の1028年に建設され、その後ここ孔廟に移設されました。
画像5:韓城市孔廟 欞星門の箱子型一体獣銜環
門には門扉は有りませんが、門の頬立の下には箱子型一体
獣銜環の門墩にそっくりの物が設置されています。門扉の回転軸を
受ける穴が彫られていないので門ではありません。避邪を兼ねた
飾りとして設置されたものでしょう。
残念ながら当初からこれが設置されていたものか聞き漏らしました。
もし宋代から設置されていたものなら、門墩の変遷史解明上貴重な
物です。隣の門柱を挟んでいる石に比べると時代が新しい様な気が
するのですが?門がここへ移設された時に追加されたのか?
孔廟(兼市博物館)が収蔵している門に関する展示品を紹介します。
画像1:展示品されている獅子像
並んでいる獅子は全てが門墩ではありませんが、大半が門墩でした。
丸い抱鼓型や立方体の箱子型の門墩はありませんでした。
韓城市には獅子型以外の門墩は無いのかどうか訊ねるのを忘れて
いました。残念!
画像2:獅子像の中の門墩
画像3:獅子像の中の門墩
西安城内の獅子型門墩にそっくりです。
これらの門墩の製造年代も聞き漏らしました。
画像4:墓石門(表側)
画像5:墓石門(内側)
地中から彫り出された古い墓の石門です。
門枕も門墩も使用していません。
門扉の回転軸は上の冠木に相当する石と下の地伏石の穴に挿し
込まれる一般的な方式です。私はこの門の構造を“上下挟み式”と呼
んでいます。建築用語の名称をご存知の方はお教え下さい。
韓城市の郊外に司馬遷の墓があります。
ここに二組の門墩が有りました。
画像1:岡の上から黄河を望む墓
画像2:四本の柏樹の生えた墓
この中に司馬遷はその後の歴史を見ながら眠っているのです。
画像3:司馬遷墓中門の獅子型門墩
この獅子型門墩も何時の時代の物か定かではありません。大門の抱鼓
型よりは古いのではないかと推測しています。
画像4:司馬遷墓大門の抱鼓型有獅子門墩
韓城市の郊外南約10kmの黄河河畔に「史記」の著者司馬遷の墓が
あります。
この抱鼓型門墩は何時の時代の建造物か定かではありません。
明末期のものと推測します。
【 今回の調査で得た一つの仮説 】
門墩の発生や普及に就いてはまだ定説は有りません。
10世紀宋の時代に普及したと言う人達もいますが、
今回の屈氏の話や韓城市の見学から
得た私の結論は、
「門墩は元代には一般に普及はしていなかった。」
と言うことです。
党家村から西安への帰途、司馬遷の墓の側で小休憩を取りました。
弟を墓に案内して帰って見ると、運転手を務める侯暁軍・見送りの屈海浪の両氏は、近くの木陰でトランプを楽しんでいた農民の環に入ってトランプに興じていました。
農民とは初対面のようです。
中国人の陽気で気さくな面を垣間見ました。
第3節 韓城市 終